↑治兵衛館遺跡の出土遺物の一部
治兵衛館遺跡
治兵衛館遺跡は、現在の大塚地区交流センターの場所で発見された遺跡で、戦国期に那須治兵衛により築城された館跡と考えられている場所でした。明治期より学校用地となり、昭和29年に開校した大塚中学校には「治平の庭」と呼ばれる中庭があり、地域の人たちにも親しまれていたといいます。同校の閉校後大塚幼稚園(当時)の新築移転先となったため、平成10年に発掘調査がおこなわれました。
調査により、館跡であっただけでなく、古墳時代から近世にかけての複数の遺跡が重なっていることも明らかとなりました。古墳時代の遺跡からは複数の竪穴住居跡や土師器が発見され、地理的な面からみても、下小松古墳群に関わる集落であった可能性が考えられます。奈良・平安時代の住居跡からは須恵器や赤焼土器などの新しい技術を取り入れた土器が出土しました。中世以降の遺構としては大きな堀跡や井戸跡があり、石臼やすり鉢などが出土しています。西側の元宿川を要害とし、近接する大塚城の出城としての役割を担っていたものと考えられます。
治平館の名前は現在、大塚地区交流センターの愛称として親しまれています。古代から連綿と続く人々の生活を感じられる遺跡です。
2020年12月15日発行 町報かわにし12月号掲載
※この遺跡から出土した資料の一部は町埋蔵文化財資料展示館(川西町交流館あいぱる内)でご覧いただけます。